お惣菜サービスがスタートしました。私の予想をはるかに上回る、大勢の方から正会員の申込をいただきました。
赤ちゃん時代、おっぱいかミルクを飲ませている間はいいのですが、離乳が始まると、何をどれだけ食べさせればいいのか、新米ママは頭をなやまします。食器だけでなく、包丁、まな板、すりばち、全てを消毒し、時間をかけてつくっても「フン」とそっぽをむかれたり「ペッ」と吐き出されてしまったり……。まして、社会的に仕事を持っている(家事労働以外の)母親にとって、いくじ→じごく→くろう……のしりとりです。私も子どもが生まれて毎日、1年365日栄養のバランスばかりではなく、できるだけ添加物のない、できるだけ加工食品を使わない食事づくりをと努力してまいりました。ただ私は7年間は、いわゆる専業主婦でしたので時間はたっぷりありました。その後、長女が5歳、長男が3歳になった頃から社会的な仕事を始めましたので、皆様と同じような子育てしながらの家事との戦いを経験することになったのです。 それでも私は料理の実技を学習していましたので、学校でも家庭でも料理実習なしに結婚に突入した方々とはちがい、恵まれていたんだと、この頃思うようになりました。なぜなら、女子師範といわれる今だったら女子大の教育学部を卒業して、すぐに、故郷から、ずうっと離れた天草に赴任した私の母が料理ができない人だったので、母の鶴の一声で私は大学入学と同時に「えのきぞの料理学校」に通わされたのでした。
昭和30年代、40年代頃までには花嫁修業として、料理学校、洋裁学校、お茶、お花の学校があり「えのきぞの料理学校」もその種の学校として人気があったのでした。そのころの女の子にとっては大学での教育より花嫁学校の方が価値が高かったのです。
さて、家事と仕事を両立させるべく、日々努力を重ねてきた私でしたが40歳を超えた頃より、夕飯づくりがとても大変になりました。(子ども達が高校に入りお弁当も作らなければならなくなったこともあり)家族の健康を考えると仕事をやめなければならないかな~と、なやんでいた頃、運命の女神の調理人Kさんと出会ったのでした。夕飯の惣菜三点くらいを作ってもらうようになりました。彼女は私の仕事場の近くに住んでいたので、彼女の台所で作って仕事場まで運んでもらいました。それから15年程つづけました。このおかげで、家族も健康で私は仕事をつづけられたのです。
皆様にも、このお惣菜サービスを提供するのは、私の念願だったのです。二人目の運命の女神の調理人Jさんとの出会いに感謝です。
チャイルドアカデミー
代表 森 裕子
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